浮遊する無名作家の浅慮

なぜ『間違い』は指摘しても中々受け入れられないのか?

なぜ『間違い』は指摘しても中々受け入れられないのか?



少し……かなり? 出遅れてしまいましたが、5月ともなれば新入社員の方々が沢山入社してくる時期ですね。遅すぎる。

気が付けば5月も終わろうとしているし……。


……っていう記事を書いてアップしないまま、7月になっていました。どうもこんにちは。


もしかすると別に年齢はあんまり関係無いのかもしれませんが、私の中では、若い人ほど正直な方が多い、という印象があります。つまり、ストレートにものを言うわけですね。

何か相手に不備があった場合、手落ちがあった場合などは、黙っていても改善には向かわないので、指摘してあげた方が良いですよね。


その指摘は、素直にはっきりと、面と向かって、直接、できれば強く、言ってあげた方がいい!


……私も昔、そんな事を考えておりました。

で、社会に揉まれてしばらくすると、それが大きな間違いだったという事に気付きます。

ああ、これは効果が無いんだな、と。

私はこの部分にですね、非常に大人とは何かということが凝縮されたような、そんな一点があるように思えてならないのです。

それでこそ大人と言うのでしょうか、大人と言えばコレみたいな……いや、よく分かりませんが。


つまりアレです

社会っていうのは思ったよりも合理的には出来てないって事なんです


ということで、今回は新社会人向けとして、そんな記事が書ければな、と思います。7月だけど。

これを読んで『その感覚は気持ち悪くて理解できない』という事があるようであれば、どうぞその気持ちを大切にして頂きたい。

なにしろこれからお話することはあんまり太陽の光を浴びないタイプの話です。

自分自身の成長とは何の関係もない、グループワークで相手が居ること前提のお話です。

受け入れられないものを無理に受け入れようとしても辛いだけですからね……。






指摘をすることは悪いことではない、という前提がある。

そもそも人に指摘をすることは、悪いことではないという大前提があるわけです。

だって相手が悪かったり間違っていたりする訳ですから、それは伝えてあげようと思って然るべきです。

それは自分よりも歳上であろうが歳下であろうが、人として間違っている事には変わりない訳ですから、誰にも差別なく伝えてあげたほうが良いということです。

しかも、自分には理がある訳ですから、強気にもなるというものです。


さて。


伝える側はこういう事を考えて、それを実行しがちです。


そうすると、わりと大きな落とし穴に落っこちてしまい、中々そこから抜けられない日々が続きます。

ここで言う『落とし穴』とは?


自分は正しいことをしているはずなのに、誰からも認められない……

感謝されないばかりか、怒られてしまう……

下に見られたり、不当な扱いを受けてしまう……

やたらと敵意を向けられる……


とまあ、こんな感じです。

ここで、「きちんと指摘してやったのに」と怒りを感じてしまう方は、一度根本に立ち返って頂きたいな、と思います。


指摘をしようと思ったのは、相手が間違っていることに気付いたからです。

それを訂正してあげようと思ったからこそ言うことにした、という事ではないでしょうか。

しかし、普通に指摘してもそれは受け入れられない事が多いと。

ならばそこには、『伝え方』という技術があるということです。



相手も「自分は間違っていない」という前提で動いている、ということ。

ここで、ふと相手の立場に立ってみようと思います。

間違っている出来事が起こるということは、相手は何かしらのアクションを起こしている、ということです。

それは仕事かもしれませんし、報告・連絡・相談に関係することかもしれませんし、コミュニケーションにかかわる事かもしれません。

そして、いずれの場合にしても、自分自身のことを「間違っている」と思いながら話したり、それを実行している人間は居ない、という事なんです。

そこで、「○○の部分に間違いがありますので、修正をお願いしたいのですが」と言われた場合と、

「○○の部分おかしいだろ。ちゃんと確認してんのかよ、直せ」と言われた場合と、どちらが受け入れやすいでしょうか。

自分ならどうでしょうか。


配慮の差というものは、こういう部分に強く効いていきます。

問題となる部分は指摘そのものではなくて、指摘の仕方だった、という事ですね。


誰しもが、「間違っている」という事実を容易く受け入れる事ができ、しかも相手からどのように扱われても、何の感情も抱かず延々と修正できる鉄のメンタルを持った人間であれば、このような差は生まれません。

でも、そんな人は中々いないでしょう。

一回一回は大丈夫でも、ずっと言われ続ければやがて自信が無くなってしまい、心をやられてしまうかもしれません。

だから、相手にそれを求めるのは酷というものです。

そういう意味で、社会というのは、思ったほど合理的にはできていないんですね。

相手も自分と同じように人間だということですね。


『間違い』の指摘に使えるテクニック。

ということで、もし相手の発言や行動に間違いを発見したとしても、それをすっぱり、まるで斬り捨てるように指摘してしまうのは、あまり巧い方法とは言えません。

たとえばこれが会社の場合であれば、人が百人居れば、百通りの反応があります。


それが上司の場合であれば、「あいつは気に入らない」と思われてしまうかもしれませんし、

部下の場合であれば、「クソ上司」と思われてしまうかもしれませんし、

同僚の場合であれば、「あいつ絡みづらい」と思われてしまうかもしれません。


勿論、それが全てではありません。中には受け入れてくれる方もいらっしゃるでしょう。

しかし、信頼・尊敬していない相手からの指摘は、とても受け入れられにくいものです。

では、この受け入れられにくい指摘を、どうやって相手に届けやすくしましょうか?

いくつか手段はありますが、ひとつは相手に敬意を払うことです。

つまり、相手が正しいと思って行動した事をリスペクトした上で、結果が間違っていたことを指摘してあげること。

これだけで、相手としてはとても受け入れられやすいものになります。

また、「間違っています」と言うのではなく、可能な限り「こうした方がもっと良くなりますよ」と言い換えをしていくというのも、有効な手段となるでしょう。

また、指摘できる内容は相手によって変わるという事もひとつ、気にかけておかなければなりません。


人によって個性によって、相手の指摘を受け入れられる範囲というものがあります。

年齢も性別も関係なく、言うならば主にその人の歴史によって決まる、許容量の範囲です。

これを無視して指摘する事はできませんし、中にはそもそも『どうあっても他人の指摘は聞き入れられない人』も存在しますので、そういう方に指摘をすることはできません。


どうせ関係が悪くなるだけであれば、間違っていても指摘をしない方が利益になることさえあるのです。


このあたりを意識して発言するようになると、やりやすさがグッとアップするのではないかな、と思います。




さて。言い合いになってしまわないよう、それでいて目的が達成されるように寄せていくしかない、という視点でここまで書いてきましたが。

最も最悪な結果になってしまうのは、自分自身も指摘の意味を忘れて、相手を攻撃してしまっているケースです。

つまり、はじめは「相手に間違いを直してもらいたい」という想定で話していたものが、知らず知らずのうちにアツくなってしまい、いつの間にか「私が正しい」と言い合ってしまう、ということです。

これはもう本当に、誰のためにもなりません……。

関係は悪くなり、相手もより意固地になり、自分も正常な思考力を奪われてしまいます。

これだけは避けられるよう、自分を訓練していきたいですね。


まあ、相手に気を遣うあまりに自分が摩耗しては疲れてしまいますので、疲れない範囲でやっていきましょう。会社も仕事もグループワークですからね。


それでは、お後がよろしいようで。


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