浮遊する無名作家の浅慮

『常識だ』と言って怒るのを、やめようと思った時の話。

『常識だ』と言って怒るのを、やめようと思った時の話。


「常識だよ」

「当然でしょ?」

仕事やプライベートなどで様々な方と接していると、どうしても他者の行動によって、自分に害が及ぶことがあり。

それが納得できる、致し方ない事ならばまだ良いのですが、どう考えても相手に非があり、しかもそれがわりと一般的に注意するような出来事で、しかも相手がそれを認めていない時は、ついついこんな事を言ってしまいたくなる事もありますよね。

常識違反、マナー違反。少し世の中を見回すだけでも、様々なものがありますね。被害の大小を問わず挙げるのなら歩きタバコ、ペットの糞放置や、スピード違反なども該当するでしょうか。

勿論程度にもよるものですが、なるべくならば私は、「常識だよ」といった怒り方をしないようにと心掛けております。


『常識』という言葉には、人によって大きな意見の相違がある。……こともある。


今では、そう考えており。実際、そうだと思います。

毒にも薬にもならないような話ではありますが、人から「常識だ!」と言われて怒られてしまった方で、もしもその叱られ方が理不尽だと感じていたのだとすれば、この記事を読むことで少しの解決・励みになればなあと思い……こんな事を書いております。



『常識』=『最善』、ではないことがある。

こんなお話があります。

実際に私の身の回りで起きた出来事ではあるのですが、ある上司の方に叱られている部下の方がおり、その部下の方が私の所へとある報告書を持ってきて、こう言いました。

「自信を持って作った報告書だったのですが、『報告書は1ページにまとめてきなさい。常識ですよ』と怒られてしまいました」

……うーむ。

内容を見たところ、特に悪い事が書いてあるようでもありません。確かに報告書そのものは3ページ程度ありますが、報告内容から考えると妥当なようにも思えます。

少し気になったもので、差し出がましいようではあったのですが、直接その上司の方にお話を伺ってみました。

「私には、彼の報告に別段不備はないように思えますが、何故1ページでなければ駄目だと思うのですか?」

すると、このような反応でした。

「報告書というのは、1ページにまとめるものです。それを超えると読む気にもなりません」

「しかし報告書の文章量は、報告内容によって変わって来ませんか? 密度の高い内容の場合は、無理に1ページにまとめると抽象的になりすぎるので、最善ではないと思いますが……」

「最善かどうかは知りませんが、報告書を1ページにまとめるのは常識ですよ」

……と、ここまでが実際の会話でした。

私は、常識や標準といったものは、最善・最良であるからこそ採用されるべきであって、良しとされるかどうか分からないものを常識・標準にしてしまうと、『真に大切にすべきモノは何か』といった考え方の根底が崩れてしまうように感じるのです。

『報告書は1ページが標準』とされる事が何故良いか、その理由が述べられれば納得もできるのですが、それは出て来なかったもので、この話は終了。

なんだか相容れないままになってしまいました。


『最善かどうかは分からないが、敬意の払い方に繋がる』常識もある。

しかし後から考えてみますと、『報告書を1ページにまとめる』ことが理想となるケースも、やはりあるのではと思いました。

名刺交換や電話対応などでは、それが最善であるかどうかは別として、最も相手に敬意を払える対応方法が良しとされています。

つまり、『人を大切にする』といった観点で『最善』だとされる常識もある、ということです。

このような意味からすれば、『報告書を1ページにまとめる』といった事も、また最善となり得るのでしょう。


たとえば、それが毎日山のように報告書を受け取る人間だったとして、いかに文章量が最適な、読み手に分かりやすい報告内容だったとしても、3ページの報告書を読む時間が取れない場合は、部下の彼が提出した報告は『最善』とは言えないでしょう。


若干内容が削られていたとしても、抽象的であったとしても、1ページの報告が読みたくなる事があるかもしれません。


なるほど。上司の彼からしてみれば、報告書を可能な限り短くまとめる事は、報告書を受け取る側にとって、最も親切な方法だったのです。

そして――……私はようやく、気付きました。


「常識って、人によってこんなに違うんだ……」


いや、身も蓋もないと言うか、なんと言うか。



『常識』は、時と場合によって形を変える。

つまり、人によって様々な『常識』があり、それらはある観点から言えば『最善』で、ある観点から言えば『最善ではない』可能性があるのです。

そうだと仮定した時に、この『最善かどうか分からないが、(その人からすれば)常識』といったものを、どこまで人に突き付けるべきなのだろうかと、私は考えました。

たとえば、住む国が違えば常識などというものは、大きく変わります。

『残業時間は100時間から』なんて常識がもし仮にあったとすると、仮に日本で普通だったとしても、海外の方から見れば笑われてしまうかもしれません。


そのくらい曖昧な、『常識』という定義のなかに住んでいる私たち。


もしかしたら、私が『常識』だと思っていることは、他者からしてみれば『常識』ではなく、しかものっぴきならない事情があるのかも……しれません。

なので、常識だ! ……と言って怒ることは、あまり良くない事もあるかもしれませんね。

どちらかと言えば、『このようにした方が良いですよ』『このようにすると、他の方に迷惑が掛かりますよ』といった言葉で説明してあげた方が、より親切ではないでしょうか。

いやー。まったく綺麗事で、現実は中々、こうはならないかもしれませんが……。




ということで、『常識』も人によって違う、というお話でした。

常識だぞ! と言われて怒られてしまった方。それは自分にとっては常識ではなく、また最善でもなかったかもしれません。

しかし……もしかすると彼には、最善とされる理由があったのかもしれません。

そうした意見の不一致は、同じ世界を生きていく中ではどうしても出て来てしまうものですから……後悔するでも怒り返すでもなく、広い懐で意味を考え理解し、受け止めてあげる気持ちが大切なのかもしれません。

何事も時と場合と言ってしまえばそれまでですが、可能であれば、より良しとされる選択肢と、人を大切にする選択肢を選んでいきたいものですね。

お後がよろしいようで。



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