さて、人が何かの物事を極めようと考えた時には、10,000時間を費やさなければならないというお話が、一説によるとあるそうですね。
この世に技術は数あれど、10,000時間で到達できる技術というものが一体どれだけの価値を持つのかという部分につきましては、私には分からないもので、なんとも言いようがないという事はあるのですが。
まったく個人的な主観で恐縮ではございますが、10,000時間程度やったところでですね、ぶっちゃけ高みには全く到達できていない気がすると言いますか。
むしろ、ここがスタートラインなのではないかと。ちょうど、何かの職業を目指して資格試験を取得したような、そんなタイミングではないものかと。
そういえば、時は去る事去年の冬、古い会社の後輩から再就職の相談を持ち掛けられまして、彼のお話に対して「資格を取る所はゴールではなくて、資格を取ってから、どのように仕事をするかが本当の目的ではないでしょうか?」とお話をした記憶が想起されます。
いや、ぶっちゃけた話、10,000時間はどうでも良くてですね。
今回のお話は、『高みに到達しようとしたが為に、見えなくなってしまう事も世の中にはあるものだ』という。そんなお話でございます。
何が見えなくなるかと申し上げますと、それは『本来の目的』が見えなくなってしまうのではないかと。
私ですね、これを結構問題視している部分がございまして。常日頃から気を付けなければなあ、と再確認している最中なのです。
とある芸術家の意見。
さて、私はこと演劇につきましては、微妙にある意味、英才教育と言いますか。私の周囲には、沢山の芸術家がおります。勿論人生の中で役に立っているかと言われれば、そちら側の仕事ではないもので……何の役にも立っていないのですが。正直、そろそろ役に立って頂きたい。
ということで、なんだか沢山の芸術家の方とお話させて頂く機会があるのですが、その時にですね。頻繁に、このようなお話を聞くことがございます。
「自分が当初好きだった作品は、技術が身に付いてくると、好きではなくなっている事が多い」
なるほど。
確かに……技術が身に付いて来るとですね、当初とは作品に対する見方が変わること、よくありますよね。私も思えば10年前と今では、随分と作品に対する価値観は変化しているような気がいたします。
この意見はその後、さらに2つの意見に分かれる事があり。その内容とは、以下のようなものでございました。
①なので、当時の自分を思うとくだらなく感じる。
②なので、当時の自分が考えていたことを忘れないようにしている。
私はですね、このうち②の気持ちを大切にして頂きたいなと、そのように感じます。
しかしながら、往々にしてこれが①に寄って行ってしまう、というのがですね。『物事を極める』という意識に対する、たったひとつの問題点ではないかなあ、と感じるものです。
自分が拙いものだと感じたモノの『価値』とは。
前述の①に寄って行ってしまう方は、他の方の作品に対しても、同じような感想を持ってしまいがちではないでしょうか。何か他のモノを見て、それを自分のモノと比較して見るようになってしまい、結果としてそれが、『自分のモノよりも劣っている』と感じてしまうこと。
そうなることで、他の作品がくだらないものに思えてしまい、楽しむことができなくなってしまう。
これはですね。良くない変化ではないでしょうか。
多くの作品は、『誰かを楽しませる』ために作られたものです。なのに、自分が会得してきた経験が逆に邪魔をしてしまい、それを楽しむ事ができなくなってしまうと。
それはつまり、同時に『誰かを楽しませる』ために作られたモノの価値を、本当の意味では理解できなくなってしまう、という事に繋がります。
技術を追い求めた結果、技術に溺れてしまってはいないか。
私はこの点が、非常に問題だなあと感じます。
そしてそれは、どのような事に対しても同じではないでしょうか。
例えば、それは営業のお話。
これは、とある友人から聞いた話なのですが。
とあるベテランの営業さんが、若手の営業さんに向かって『あいつは敬語がちゃんとできていないから、常識がなっていない。営業として失格だ』と言っていたそうです。
しかしですね、そのベテランの営業の方というのが、これが非常に高圧的に人と接する方だったそうで。確かに敬語ではあるのですが、相手を見下し、ぞんざいに扱うのだ、ということでした。
対する若手の営業さんは、言葉こそ敬語ではないものの、相手の目線に立って話すので、とても好印象な方だったそうです。
敬語ができるが、人を雑に扱う営業。
敬語はできないが、人に丁寧に接する営業。
勿論どちらも未完成ではあるかもしれませんが、仮に2つを比較するなら、より相手にしたいのはどちらでしょうか。
少なくとも私は、後者ですね……。
技術を磨きつつ、初心を忘れない。そんな意識。
初めは、その芸術作品を作る方も、誰かを楽しませるために作品を作っていたのでしょう。……しかし、長く芸術の技術を磨くあまり、いつの間にか過去の自分を陳腐だと感じるようになり、いつの間にか本来の姿を忘れてしまった。
初めは、そのベテランの営業の方も、他人には丁寧に接していたのでしょう。
……しかし、長く営業の技術を磨くあまり、いつの間にかそれは自信になり、いつの間にか本来の姿を忘れてしまった。
そこで大切なことは、『技術を磨きつつ、初心を忘れない』という事だと思うものです。
これがですね、簡単なようで、実は非常に難しい。
『本当に求められているものは何か?』という問い掛けに、最もシンプルな回答を見出すためには、非常に多くの回り道をしなければならない事がよくあります。
答えが出てしまえば、簡単なもの。しかし、答えを出すまでは非常に難しいもの。コロンブスの卵のようなものではないでしょうか。
例えば芸術作品で言えば、他人の作品を皆一様に、劣っていると定義するのではなく。
目的としているものが何かを想定し、成功している部分と失敗している部分に分け、より良くなる方法を見付けられれば、それは『成功している技術』。
例えば営業で言えば、一様に敬語が出来ないのが悪いと定義するのではなく。
相手方がフォーマルを望んでいるのかフランクを望んでいるのかを見分け、よりビジネスが円滑に進む方向へ話術を使い分ける方法を見付けられれば、それは『成功している技術』。
そして、これらの技術を会得するためには、考えているだけでは駄目です。実践し、確認しなければならないのです。
当初の自分が目的としていた事と照らし合わせ、必要な効果が出ている事を確認しなければならないのです。
合っていなければ、それは『技術』ではなく、『失敗の経験』となってしまう。それも大事ですけどね。
失敗の経験を確たる技術に変化させる為には、本当に多大な努力が必要だと思います。
いやー。やはりですね。これは大変な事ですよ。
何事も、あれこれと考えて堂々巡りをした結果、自分の中にある『常識』や『ルール』に囚われてしまう。そうした結果、いつの間にか本来の目的を忘れてしまい、本末転倒になってしまう。
私は、『物事を極める』という意識には、こういった落とし穴があると感じております。
その落とし穴を回避するためには、自分の今立っている場所を冷静に俯瞰して見ながら、常に自分自身への問いかけを忘れてはならない。
……私も、精進しなければなりませんね。
少なくとも言えることは、それが作品であるにせよ人であるにせよ、『成長の道はひとつではない』という事だと思います。
他作品、他者の意識や成長過程を寛容に受け止め、その中で吸収できる知恵を自分のものにしていく。
プロフェッショナルを目指すのであれば、このような意識でありたいものですね。
……という、お話でございました。
しかし……私の作品は、これがどーにも中々、成長しないのですよね。何が足りないんでしょうかね、ほんとに。
あ、センスか……。
お後がよろしいようで。
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