浮遊する無名作家の浅慮

仕事とは、結果を出すことだ。それは当たり前ではあるけれど。

仕事とは、結果を出すことだ。それは当たり前ではあるけれど。


社会人も様になって、ある程度自分にできる明確な仕事というのか、日々忙殺されながらも達成した、ある程度の功績というのか、そういうものが分かったり、残せるようになったとき。

ふと、思い出す事があります。

社会人というのは当然の事ながら、ある程度のお金を稼がなければならないわけで。それは人数が少ない企業ほど、より内部事情が見えると言いますか、現実的であったり、即日的であったりします。

お金を稼がなければ死ぬ。会社がなくなる。そのような危機に直面することになり。個人であれば、それは生活ができなくなるということで、文字通りの死という事になり。

そのように書くと、「どこでも働けるじゃないか。死ぬというのは大げさだ」といった感想を持つ方もいらっしゃると思いますが。私はどこかロマンチストな所があるからなのか、一度軌道に乗り出したビジネスを簡単に投げられるようには、どうやら頭がうまくできていないようなのです。

そのような私にとっては、まさに仕事とは、現代における戦のようなものであると。仕事における結果というものは、とても大事なのだなあ、と感じます。

負ければ死ぬ戦いなのです。そうとあらば、やらない訳にもいきますまい。

しかし、それは同時に、厳密に言うと目的は『お金を稼ぐこと』であり、『物事に一生懸命取り組むこと』ではないのだという部分に、少しばかりの寂しさと言いますか、悲しさのようなものを感じる時があるのです。

遊びのチャンバラごっこを卒業して、ふと戦場に向かう時の寂しさと言いますか。

もうお世辞にも若いと言える年齢ではないのですが、どういう訳か未だに、そのような想いを捨てきれずにいるのです。

このような想いを感じることが、私の他にもいるのでしょうか。




先日、とある仕事で私は「配慮が足りていない」ですとか、「期待通りの仕事をしていない」というお叱りを、とあるクライアントからいただいてしまいました。

その仕事は、本来であればクライアントがやらなければならない予定の仕事で、こちらには事情がわかりません。しかしながら、解決しなければならない課題ではあると。

そうは言ってもやり方が分からないからということで、試行錯誤しながらも、どのようにして達成すれば良いのかを検討、協議している最中だと私は考えておりました。

私としては、サポートして欲しいのは分かるけれど、どのようにサポートしていいのか分からない。では、どうやっていこうか。そのような状況でした。

だから私も及ばずながら、必死になって考えたものです。しかし、こちらから提案した仕事内容がうまくイメージできなかったようで、それがクライアントを苛立たせてしまったようなのです。

当然、私が行なったその仕事そのものには、費用は発生しておりません。ですが、目的はビジネスを潤滑に、より活性化させることです。そのような目的で両社、一心同体頑張っているつもりだったのですが、ふと言われてしまいました。

「こっちはお金の条件を呑んでいるんですよ。だから、きちんと仕事をして頂かなければ困る」

なんとなく。普段であれば当たり前の事なのですが、先方のお相手がこれは大変に仕事ができる方でして、意思疎通ができてコミュニケーションに長けている方なので、それはあまり予想していない言葉でした。

私がうまくお話を伝えられずに仕事が滞ってしまったことを、クライアントは『怠慢である』と認識したのです。

なんと言いますか、仕事だからそのような感想になったのではなく、どうも本当の意味で、私が適当に仕事をしているのだと感じたようなのです。

ビジネスは、負ければ社会的に死ぬ世界です。

だからこそ、思いました。

厳しいなあ、と。

お金が貰えないからサポートはしませんよ、と高慢な態度を取っていたつもりはありませんでした。決して手は抜いていないつもりです。しかし、このように私が達成できなかったことで、これまで築いてきた筈の信頼が、一瞬にして無くなってしまうこともあると。

いや、そもそも私が勝手に、夢物語的に思い描いている信頼というものは、はじめからなかったのだろうか。

このような時、ふとすると忘れてしまうことを、改めて思い出す事となります。

ビジネスでは、結果こそが信頼の根拠。

結果とは、「お金を稼ぐこと」であり。そこにいかなる努力や試行錯誤があろうとも、それが評価される事は永遠にありません。

私のような、風が吹けば飛ぶ会社で嵐に立ち向かう人間は、いつでもより強い者から首を絞められる立場にあるのです。

金を払っているんだから、より大きな金を稼げ、と。

自分が関わっているお金の金額そのものが、人から信頼される数値になりうる。とある有名な方も言っておりましたが、お金とは信頼を数値化したものなのだと。

それが特に悪いとも思わず、反骨精神のようなものを掲げる訳ではないのですが。このようにですね、努力と結果が一致しなかった時などは、やはり体力を消費するものです。

そして皆が、それと同じ立場で戦っているのだ。

これを戦場と言わずして、なんと言いましょうか。

お金のことを意識するようになると、やはり最終的には結果を出す所に行き着きます。これは達成しなければならない事であり、達成しなければ死ぬ内容なのです。ならば私の手で会社にダメージを与える事は、極力避けなければなりません。

今回の件も、他の手でサポートすることを考えなければなりません。

やりましょう。

生きるために。






そうして、生きて行くために必要な事をこなしていく日々に忙殺されながら、遂に仕事も趣味も一緒になってしまった私は、たまにふと、後ろを振り返る事があります。

そこには、「物事を達成すること」「努力し、新しい技術を身につけること」「知識を増やす事そのものに、喜びを感じること」そんな、ありのままの自分の姿がありました。

あの頃に戻りたい訳ではありません。しかしそれは、私がこれまでに紡いできた歴史でもあります。

そうだとすれば、仕事もまた『人生』であり、『歴史』を持つものであり。その人にとっての、大きなひとつの価値となっていく筈であると。

とにかく我武者羅に一生懸命仕事をしてきた人間の、『年齢』もまた、価値ではないか。

目上の人は敬うものだというのは、このような根拠から来ているのではないかと。

そのように、どこか『結果こそが、価値を増やす事こそがすべて』とは若干矛盾したことを考えながらも、これが等しくゆるやかに、誰もが死に向かっているのだという事実に、どこか寂しさであったり、悲しさのようなものを感じるというわけです。

このような感情を持つのは、私だけであろうか。

きっと、後悔や苦渋や責任や叱咤、日常のそのようなものに揉まれて、身も心もすっかりくたくたになってしまった頃、ふとありのままの日常の美しさに心を癒されることもありましょう。

朝焼けを見て、涙を流すこともありましょう。

事実は小説よりも奇なりと言いますが、やはり人生というものは、面白くも悲しいものであると。

喫茶店で、ふと一杯のコーヒーを飲みながらですね。

そのようなことを考えると、そういうわけなのです。



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