浮遊する無名作家の浅慮

「生きた台詞を書く」という事の難しさ。

「生きた台詞を書く」という事の難しさ。

季節は梅雨ですね。梅雨と言えば6月、6月と言えばジューン・ブライド。ご結婚される方も多いのではないでしょうか。そんな昨今、いかがでしょうか。

私といえばですね、これから雨が続くのかと思うと少し気分が落ち込む反面、ようやく涼しい時が訪れるのかと。5月後半は夏日が続いていましたから、なんだか夏を先取りしたかのようで、少し損した感がありましたよね。

夏なのに休みは無い的な。夏休みはやっぱり短い!

やはりですね、夏と言えばスイカバーではないかと。そんな私、実はスイカバーなるものを人生でまだ食した事が無くてですね。

今年は挑戦してみようかしら。

さて、そんな最中、水面下では舞台演劇の企画なるものが着々と進行しておりまして。なんと最後に公演したのは5年前というお話なのですが、今年はやりますよ。もし宜しければ、是非見に来て頂きたいなと。

とはいえ私、今回は脚本を書く訳でもなく。元々役者ではないので、何かを演じる事もなく。裏方に徹しようかと思っている状況ではございますが。

しかしですね、いちクリエイターとして、脚本メイキングの打ち合わせには登場しております。

やはりですね、そうすると、意見しなければならない事もある訳です。私の技量的にいかがなものかと思う所ではありますが、ここは素直に意見しなければなるまいと。やはりですね、末席とはいえ、私も参加者なのです。ここはやはり、意見を言うべきではないか。やはりではないか。

ということで、今回は『生きた台詞』について、検討してまいりました。


 その台詞、死んでいませんか?

やはり作品のプロットを作る時にはですね、相当に中身を作り込んで行くものです。この作品などは検討を始めて既に5年が経過している訳ですから、その中身の熟練度と言いますか、練り込まれ方も相当なものです。

えっ。5年って、5年間ずっと本の事をやっていたんですか?

そうなんですよね。

私はですね、それなりにスピードを大切にするものですから……それはもう、もどかしくて、もどかしくて。

今ようやく、実際の台詞を書いて行く段階に入っているのですが。本を書いている方の台詞を拝見させて頂きまして、「おや……?」と思ってしまったのです。

本に問題がある気がする。しかしそれは、私がちょうど5年前に立ち向かった問題に似ている、と。

今の私ならば、これを解決する事ができるのではないか。

「なんか……プロットの時に想定していたものと、ちょっと違わないかな?」

「そうかな?」

「ちょっと、惜しいっていうかな……そう、惜しい、台詞が」

この私のメッセージは、伝わったのでしょうか。いや、自分でも結構アバウトな表現になってしまったなと、少し後悔の入る所ではあるのですが。

しかし、まったく表現の通りなのです。惜しい、台詞が。

なんと言いますかこう、パッとしていないのです。生き生きとしていないのです。言わば、登場人物が台詞を喋らされた時、みたいになってしまっているのではないか。


 生きている登場人物、死んでいる登場人物。

これですね、ちょうど私は同じことを悩んでいた時期があったものですから。どうしても、気になってしまったのです。

作品のプロットを練り込むと。つまり、様々なシーンの構成を意識し、その出来事について意識するようになると、サラで何もプロットを書き起こさずに書いた時とは決定的に違ってしまう事があるのです。

それが、『台詞が死ぬ』『登場人物が死ぬ』という現象であると。

どうも、登場人物が台詞を喋らされているような雰囲気があると。予め決められた台詞が登場しているようなイメージがあると。こうなると何が問題かと言うとですね、登場人物の気持ちがはっきりと伝わって来ない。

よく練られたプロットほど、そのような事に陥りがちなのです。「ああ、こうなるよね」と。感動と言うより、納得する方向に動いてしまいがちなのです。

これではいけないと。

いえ、納得して頂くのが作品の目的であれば構わないのですが、心を動かしたいと思った時は、こうではいけない。

では、何故、このような現象が起こってしまうのか。一生懸命プロットを考えた時ほど、どうしてこうなってしまうのか。

私はそれについて考え、一年ほどの時間を費やして検証し。ようやく、解答を見出す事ができたように感じます。

何故、よく練られたプロットの登場人物が死んでしまうのか? ……それは、『登場人物が集中している方向がボケる』という問題を抱えているから、ではないか。


 演者のスキル。演技のスキルを、本に取り入れる。

プロットを書くとですね、当然ではありますが、物語の始めから終わりまでを、書き手は意識する事になりますよね。

という事は、今自分が書いているシーンがあって、それをきっかけにしてその後どうなると。そのような事は、予め理解された上で文章を書き起こしていると。

つまり、書く時にもですね。「ここでこのような台詞のやり取りがあって、これは次の○○のシーンで生きてくる」といったような事を考えながら書いている訳なのです。

これが、文章にも現れてきてしまうんですね。

プロットが無い場合は、当然そんな事は決まっていない訳ですから。文章を書く時には、『今、その状況がどうなっている』だとか、『今、この登場人物はこんな気持ちになっている』という事に意識が向いていると。

これが、プロットがある場合と無い場合で、決定的に違う部分になってしまうと。

だから、プロットなんて無い方が良いんだ! ……というのは少し極論で、仮にプロットがあってもですね、このように、実際に起きている出来事に集中して書く方法があります。……という事を、私は一年掛けて学ぶ事になってしまったと。

では、何のスキルを使って書けば良いのか。

私はですね、演技のスキルを使えば良い、という結論に達しました。

良い演者様はですね、この後の進行が分かっていたとしても、そのシーンに対してまったく本当に『反応』し、その場の状況に巻き込まれ、その中で得る本当の感情に触れていると。

つまり、今までに想定してきた事を忘れ、一旦すべてをリセットした上で、物語の環境に飛び込んでいくスキル。

これを身に付ければいいと。

という事で、一年ほど掛けてですね。実際に役者を経験し、定められたシーンの中で、自分の感情が本当に動く瞬間というものを探していく。

というような事をですね、私、やって来ました。

そこでですね、これはかなり勇気の要る言葉だったのですが……同じシーンをですね、一度私に書かせて頂けないでしょうかと。そのような提案を、させて頂いたのです。

人の書いたシーンを書き直すだと!? 無礼者が!!

やはり、そう思う方もいらっしゃるのではないか。

しかしですね。この『一旦忘れて、登場人物の状況について集中する』という事には、訓練が必要です。言われていきなり実行するのは、これは難しいのではないかと。

たいへん恐縮ながら、一度、私にやらせて頂けないでしょうか、と。

そうして恐る恐るシーンの修正をさせて頂いた所ですね、なんと……納得して頂いたのですね。

「確かに違う。こっちの方が良いよ」

と。

ふうううう。

私はですね、溜息をつきましたよ。

よかった。私の一年が無駄にならなくて、本当によかった。




という事でですね、『生きた台詞を書こう!』という問題については、ある種の終着点と言いますか、そのようなものが見えたのではないかと。私は、そのように感じているのですが。

それでもやはりですね。全ての登場人物が、今現在何について集中しているのか、何を想定しているのか――……という事を考えながら書くのは、これは中々に難しい。

まだまだ、私も訓練が必要な所でございます。

しかし、このような事をやったものですから、この後の本についてどうしようかというお話になった所、ですね。やはり、その先の展開について私は細かく分からないものですから、ここから私がバトンタッチして本を書く訳には、どうにもいきませんよと。

ならばという事で、一度出来上がったシーンについてですね。私が修正をする、という流れになり。

「その方が良いよね」

「ああ、まあ……そうね」

あれ……? また仕事が増えたぞ? ……うーん?

お後がよろしいようで。


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