浮遊する無名作家の浅慮

遠い昔、自分はもっとできる人間のような気がしていた。

遠い昔、自分はもっとできる人間のような気がしていた。


まだ自分が学生だったりなんかして、色々な可能性があると言われていた頃、私は自信に満ち溢れておりました。

特に根拠も無かった訳ですが、何故か自分はできる人間のような気がしていたのです。

別に実績も無かった訳ですが、やればできるような気がしていたのですね。

たとえば、こんなに様々な作品を見ているのだから、作品を創る事もできるような気がしていました。

たとえば、こんなに勉強しているのだから(特に言う程やっていなかった訳ですが)、人より頭が良いような気がしていました。

たとえば、ただネットサーフィンしていた程度でしたが、PCに詳しいような気がしておりました。

後にですね。気付きます。

消費行動では、技術の力は身に付かないのだということに。

そうするとですね、今度は色々な壁に突き当たると。

想像以上に、自分のクオリティが低いのだと。

頭の中でイメージしていた私は、もっと様々な事ができて、瞬時に物事を理解し、社交性もあって、人からの信頼も厚い私。

実際の私は、技術も知識もなく、そのために物事を理解するのに時間がかかり、そのくせ批判の口だけは達者な、あまり人から好かれない私。

こんな筈じゃなかった。

こんな筈じゃなかったのに。

そこで、自分の目標を達成するため、今度は本気で勉強を始めると。

自分が駄目なことを知っていて、それでも出来る限りの事をしなければ。そう、思い立った訳なのですが。

これがですね、スタートした直後はやればやるほど駄目で、いかに自分が駄目なのかが浮き彫りにされると。

それでも一生懸命にやっていると、私のような阿呆にも、見えてくるものがありました。

私が望んでいた、そうでありたいと思っていた、様々な事ができて、瞬時に物事を理解し、社交性があって、人からの信頼が厚い人はですね。

知識があって、それを何度も失敗し経験することで、技術に変えていく。そうすると、段々と自分の能力というものが、コントロール可能な範囲に収まってくる。

コントロール可能な範囲が、段々と広がってくる。

しかし、そうなるためには何度も失敗しながら、痛い思いをしながらも、それに立ち向かって行かなければならない。

そういうことを、知っている人なのだと。

技術が身に付けば身に付くほど、自分よりも前に立っている方の存在というものを、強く感じるようになりました。

何しろ、この『技術の発展』には、終わりというものがない。

そして、自分が成長する程に、自分の前に立っている方と後ろに立っている方を、見極められるようになり。

それらは決して、前に立っているから偉い訳ではなく、後ろに立っているから劣っている訳ではなく。

誰もが一様に、終わりない目標に向かって進んでいるだけ。

スタートが違えば成長する順番も違い、ゴールも違う。そんなものに、優劣などは存在せず。

ただ、自分のありたい自分であるように、と。そのように、頑張っているだけなのだと。

そういうことに、気が付きました。

するとですね、人に対しての感想も、変わって来る事に気付きました。

これこれこういう事をすると、もっと効率よくできるかもしれませんよ。

こんな事を考えると、もしかしたら、うまく行くかもしれませんよ。

そんなアドバイスをする事はあってもですね。

こんなのは駄目だ! こんなのは有り得ない! 劣っている! 技術がない!

そんな事を言うのは、特殊な状況を除いて、ナンセンスであるということに気が付きました。

何故か。これらの批判は極端な話、誰にでも可能だからです。

誰にでも可能であり、おそらく本人も理解している事だからです。

何故、相手が分かっているかもしれず、しかも言った所で何かが解決する訳でもない、単なる否定だけの言葉を、わざわざ投げ掛ける必要がありましょうか。

解決の提案ができないのであれば、その人と同じように、それは自分にも分かっていない事なのです。

ありのままの姿にけちを付けた所で、その人が成長する訳でもなければ、自分が成長する訳でもない。

そうか。解決の取っ掛かりがない『批判』と思わしきものは、一見意味があるようであって、実はあまり意味を持たないんだ。

そんなことに、気が付きました。

しかも、技術が身に付くほどに、これまで自分が他人に投げ付けてきた、『技術がない』という問題を解決する事が、いかに難しい事かを思い知らされるのです。

知識も技術もない自分が出したアドバイスは、技術が付いた後で見てみると、いかに間違っていたのか、という現実に気付くと。その上、当たっている事は殆どなく、実は八割方、間違いであると。

技術が身に付くほどに、それは恥ずかしく感じられます。

なんだ私は、と。これでは、ただ知ったかぶりをしているだけではないか。

それでも、どうしようもなく腹が立って、言ってしまう事はあります。

「あんたおかしいよ!」

しかしながら、言ってしまった後には、次はやめよう。と、そう思うようになりました。

ただ、言ってしまったその人が、前に進めなくなるだけかもしれない言葉は、胸の内にでもしまっておきましょう。

その代わり、その人が前に進むための提案ができる場合は、それをそっと、机の横にでも置いておけばいい。

その人にとって必要であれば利用するでしょうし、必要でなければ捨てられるでしょう。

捨てられる可能性もあります。何故なら、自分が出したそのアドバイスは、自分にとっては正解でも、その人にとっては間違いかもしれない。

ならば、捨てられても良いんです。それは、その人には必要の無い事だった、というだけですから。

良い『アドバイス』って、案外そんなものかもしれません。

ごく最近、少しずつですね、周囲の環境が良くなってきたような気がいたします。

若干でも、認めて頂けるようになって来たのかもしれない、と。

しかし私は残念なことに、『できる人間』とは相変わらず、程遠い位置におります。

毎日目標を持って変わろうとしておりますが、これが中々、思うようには進んでくれません。

それでも、自分に目が向けられるようになっただけ、私は成長したのかもしれません。

立ち止まって、人や人の作ったものに文句を言っているだけの状態からは、どうにかこうにか、脱却したのかもしれないと。





自分に絶対の自信を持っていて、ガツガツしていて、どんどん否定意見を言う、あるいは若い方。

「だから、そんなの有り得ないんだよ」

そう言っている方を見ると、なんだか私は、昔の自分を思い出します。

それが悪い訳でもなく。仮にその方に技術が無かったとしても、それは向上心がある事の証であり。向上心が強い事は、素晴らしい事だと思います。

だから、そんな風に強い意志を持つ方から面と向かって否定された時、私は出来る限り、その人の言葉に耳を傾けようと思っております。

私に対して発される、「どうにかしてよ」のメッセージ。

それは、たとえ何の解決策を持たない言葉だったとしても、解決するしかありますまい。

そうすることで、『できる人間』に一歩近付くと言うのであれば。今より少しは、誰かの役に立つようになるかもしれません。

そんな私の足掻く様を見ることで、今立ち止まっている誰かが、前に進もうとするかもしれません。

そのような変化がもし起こったとすれば、私は嬉しい。

もしかしたらそんな、泥臭い関係でも良いのかもしれません。

何故なら私は、きっと今までもこれからも、『できる人間』ではなく。

それはきっと、どんな時でも『私』だというだけなのですから。


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