たまに、ふとした思い付きで、
自分の命の価値というものはどういうものなのか、
などと、考えることがある。
人に何をどれだけ与えられたかというのか、そういう事なのかもしれないと思うのだが、
いつ問い掛けても結局の所、答えなど出て来ない。
もはや思春期など、いつだったのか、果たして私にはあったのか、などと考えてしまう位には通り過ぎてしまっているのに、
今更このように青臭い事を考えるのは、少し恥ずかしいのではないかとも思うのだが。
しかし、どうしてもと言うのか、考えてしまうのだ。
自分にとって大切な人が、自分よりも早く、死んでいく。
それは、自分よりも年上である以上、ある程度は仕方のないことで、
遅かれ早かれ、誰もが経験することだ。
それは分かっているのだが、
しかし、実際に人が居なくなるたび、考えてしまう。
彼は、彼女は、自分の命に、ちゃんと価値を見出してから、死んで行ったのだろうか。
それとも、その答えを見付ける事なく、死んで行ったのだろうか。
私は彼に、彼女に、自分が近くに居ることの価値というものを、提供してやれたのだろうか。
それとも、まるで私には価値などなく、或いは少し恨まれたり、嫌われたりもしながら、居なくなってしまったのだろうか。
命の価値。
そんなものは分からない。
考えても仕方のないことだ。
彼等は幸せに死んで行ったのかもしれないし、幸せでは無かったのかもしれない。
彼等は私に価値を感じてくれていたかもしれないし、感じていなかったかもしれない。
できれば、価値を感じて欲しいと思っている。
彼等に、価値を。
できれば、価値を提供できていればと思っている。
私が居たことの、価値を。
だが、それは考えても仕方のないことだ。
例えるなら、セピア色の写真を見て、一体元の色が何色だったのかと考えるようなものだ。
その人は、どんな色の服を着ていたのか。
ある程度、色が付いていたという事は分かるだろう。白ではない。完全に黒だったら、もしかすると分かるかもしれない。
だが、そこまでだ。
真実の所はどうだったのかなど、誰にも分からない。
当人でない限りは。
私は彼等ではない。だから、私は当人にはなれない。
だから、彼等が私に対してどのような命の価値を感じていたのかは、分からない。
それだけのことだ。
だが、それは誰でもそうなのかもしれないと思う。
会話をしながら、食事をしながら、誰かと共に過ごしながら。
命の価値を問い掛けている。
セピア色の写真を見ながら、色を言い当てているのかもしれない。
真実は永遠に分からないと、知っていながら。
私の価値は、私だけが知っている。
そう信じて、自分の命の価値を信じながら、日々を過ごす。
しかし、結局の所それは、分からないという結論に達する。
何故なら、比較対象が無いのだ。
他の人がどうなのかが分からないという事は、自分の事がどうなのかという事もまた、誰にも分からない。
結局の所、自分が見ている世界もまた、セピア色なのかもしれない、ということだ。
そうすると、結局自分のことも相手のことも、分からないのだと気付く。
分からない中で、一生懸命に価値を見い出そうと努力している。
あるいは、自分の価値を信じ切っている。
ということは、命の価値とは、何かによって定まるものではなく、
自分自身が決める事によって、初めて成立するものかもしれない。
ならばと、私は思った。
自分にとって大切な人が、自分よりも早く、死んでいく。
そんな時、その人の命の価値は、私が決めても良いのかもしれないと。
私が彼の命の価値を信じ、周りの人も彼の命の価値を信じれば。
きっとそこに、命の価値は生まれるのではないだろうか。
そう考えると、少し優しい気持ちになれる事に気付いた。
元から不確定なものなのだから、丁寧に測ろうとすれば、それは分からない。
丁寧に測ろうとする事そのものが、間違っているのかもしれない。
だから、信じれば良いじゃないか。
今はセピア色の写真しかないが、あの日の彼はきっと、赤いシャツを着ていた。
その位の軽い気持ちで、誰にでも命の価値があると。
そうすることで、命の価値が生まれるとすれば。
これは、もうけものだ。
丁寧に測ろうとする事そのものが、間違っているのかもしれない。
だから、信じれば良いじゃないか。
今はセピア色の写真しかないが、あの日の彼はきっと、赤いシャツを着ていた。
その位の軽い気持ちで、誰にでも命の価値があると。
そうすることで、命の価値が生まれるとすれば。
これは、もうけものだ。
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