さて、時というものは「おおい」と呼んでも待ってはくれないどころか、私を置いて先へ先へと進んでしまうもので。急に世の中が空虚になってしまったようで、色をなくしてしまうと言いますか。そのような事も、やはりあると思うのですね。
それこそ、幸せではないと感じる時ではないか。
やはり我々は人間でありますから、生きている以上は何かをやっています、ということで。その人生の中で、私達はよく、「ああ、幸せになりたい」といった風にですね、欲を口にする事があると思うのですね。
満たされていたい。心の隙間を埋めたい。そう思う事も確かにあると思うのですが、では幸せとは一体何であろうか。
人にとっての幸せとは、何であろうかという。
それはやはり、秋の日に枯れゆく落ち葉を見て、ああ、今年もやはりそうかという、感傷に浸るようなものではないかと、私はそのように思うのですが。どうしてもそのような時は、物悲しい気持ちになってしまいますね。
それは、祭の後のようなものであり。日は昇ればやがて沈むのである、という事でもあるかもしれませんね。
……と、今回はそのようなお話です。
その人にとっての幸せとは。
やはり、人生についての幸せを考えるにあたり、まず人生とは何かという所からですね、考えなければならないのではないかと思います。人生において避けられない要素としては、やはり出生と死去が深く関わるのでは、と私は考えるのですが。
そこから、あるひとつの意味では、幸せの定義なるものを見付ける事も、可能なのではないか。
といったところで。
故人の事を想う時、亡くなってしまった当初は、やはり悲しい気持ちが勝るものですね。
あの人にはもう逢えないのだという事を、何気ない一瞬の中でもつい意識してしまい。そうなると、心に穴が空いてしまったような気がして、どこか落ち込んでしまう。
しかし、その痛みもやがて時が経つとですね、受け入れられるようになってくるという。いや、むしろこれらの痛みとは、時の流れでしか解決する事はできないのではないか。
実際には亡くなってしまった人が戻って来る事はありませんし、私達が、少なくとも今世の間にですね、その方と逢うことは、無いのかもしれません。
だから、本当の事を言うとですね、これは時が経ったからといって、何かが解決している訳ではないと思うのですね。
ただ、文字通りそれは、受け入れられるようになる、という。
色々な側面があることを承知で、その一面としての言葉ではありますが。受け入れられるというのは、やはりこれは、生きていた時のあの人が、『どうか幸せな人生であったなら』と願うが故に、これを受け入れると。
そういった側面も、やはりあるのではないかと思うのですが。
ようやく、幸せの話が出て来てまいりました。
だから、受け入れた後はですね、人というものは不思議で、まるで生きていた時のようにですね、亡くなった方の話をするんですよね。
まるで、今はここに居ないだけなのだという。どこかで幸せにやっている。ここに居た時も、やはり幸せであったと。
私は思うのです。
これこそが、『幸せ』という定義の根幹なのではないかと。
幸せとは、後から感じる要素なのではないか。
幸せとは、あればあるだけ更に求めてしまうという、さながらお菓子のようなものではないかと、私は考えており。逆にですね、無ければ無いで、その少ない喜びの中に、大きな幸せを噛みしめる事ができるものだとも、考えているのですが。
その時に感じた『幸せ』というものはですね、多くの場合、これは一瞬ですよね。どれだけ幸せに感じていたとしても、それはやがて通り過ぎてしまう。
だから、私達は常日頃から、「もっと幸せでいたい」「ずっと幸せでありたい」と、考え続けているのではないか。
何故なら、この幸せというお菓子はですね、食べ続けると飽きてしまうのですね。刺激にならなくなると、より強いものを欲してしまう。
しかし、冒頭でも述べましたように、時というものは幸せの時間だけを引き伸ばす事は、決して、してはくれないと。
だから、全ての幸せは過去になってしまう。過去になった後で、『ああ、あの時は幸せっだった』と、そのように考えると。
だから、故人を想う時にこそ、『どうか、幸せであったなら』と、そう考えるのではないか。
ここで、題名のお話に戻りまして。
幸せになりたい。では、幸せとは何であろうか。
それは、過去の幸せを噛みしめる事なのかもしれないと。
何故なら、幸せは一瞬だからです。どんなに長く続けようと思っても、いつかは幸福を感じなくなるという形で、終わりを迎えてしまうのではないか。
『ずっと、永遠に、幸福感だけを感じ続ける』というのは、これはですね、難しいのではないかと。
少し、変な話になってしまいました。
ということはですね、これは少し変わった表現になるかもしれないのですが。私の『幸せになるためには』という問いに対するひとつの回答は、『日常の中に、小さな幸せをつくる事ではないか』と、そう考えます、と。
『嬉しくて涙が出る』ようになる。
どのような幸せも、やがては感じなくなる事によって終わりを迎えてしまう。ということは、幸福感というものはですね、これは生物だという事だと思うのですね。
コーヒーの苦味に慣れるように、幸せは慣れていってしまう。そうすると、幸せを感じなくなってしまう。ということは、つまり『ずっと幸福でいよう』と考えるというよりは、『最大限に幸福を感じよう』と考える方がですね、理に適っているのではないか。
では、最大限に幸福を感じるためには、どうすれば良いのか。
ひとつの解決策としては、日常の一時の中に、『小さな幸せ』を感じられる事を、沢山作ればいいのではないか。
永遠にではなく。それは、断続的に。
そうするとですね、『より強い幸福』を求めなくとも、『幸福感』を得る事は可能なのではないかという。
別に、特別裕福であったり、欲しいものが何でも買える状態である必要は無いのではないか。それは、例えば家に帰ると、必ず大切な人が出迎えてくれる、といった事なのではないかと。
そのような事を、求めていくべきなのでは。
しかし、そう考えた時にですね、これは同時に、とても悲しい事だとも思うようになったのですね。
何故なら、幸せというものは、いずれ過去になってしまうものだからです。
どのような出来事も、いずれは思い出にする事しかできなくなります。そうなった時、『幸せだったあの時』を、まるで同じように『体験』することはですね、これは少なくとも、今の所、できない。
だから、人は嬉しい時にも涙を流すようになるのではないかと、私は思います。
だからこそ、それはやはり、秋の日に枯れゆく落ち葉を見て、ああ、今年もやはりそうかという、感傷に浸るようなものではないか。
綺麗だね。でも、やがて冬が来ると、それは枯れてしまうね。
そのような事を想う事ができるようになるには、やはりこれは、時間が掛かります。だからこそ、幸せを感じられるようになったら。それは『幸せ』と『そうでない時間』とを両方経験した、心が成熟した証なのではないか。
それと同時に、やはり人というものは、とても尊いものであるという。
そのように、考えさせられてしまいました。
ということは、人が生きているという事そのものがですね、これは幸せなのではないか。
極論、そのような結論になるとも考えてしまうのですね。
産まれて来る事の喜びこそが、人にとって最大の幸せではないか。それは過去になってしまっても、いつまでも残る幸せであると。
産まれて来る事が、人生の始まりだとすれば。それは、どのような短さであっても、確かに産まれて来たのではないか。
それはやはり、尊い事ではないか。
幸せになりたいと、そう考える方もいるでしょう。しかし、この浅慮からすれば、幸せとは今かもしれないのではないかと。
そして私は、やはりこれは、小さな幸せを人に与えられる人間でありたいと、そう想う所なのですが。
いつも幸せでありたいですね。
お後がよろしいようで。
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