浮遊する無名作家の浅慮

人に誠実さを求める時こそ、自分の誠実さを気にするべきであろうか。

人に誠実さを求める時こそ、自分の誠実さを気にするべきであろうか。



ふとそんな事を思ってしまったので、こちらで書かせて頂きたい、などと思いまして。

どんな時でも誠実であれ、というのは、これは思ったよりも難しいものでして。私も日々心掛けている身ではありますが、やはりどうしてもですね、誠実さを欠いてしまう時があります。

それ程に誠実さとは、一筋縄ではいかないものです。飢餓に陥っている時に、手に入れたパンを子供達に分けてあげるような心構え。

映画のアラジンは盗んだパンを子供にあげてしまいましたが、我々もあのようにですね、誠実な心を持つ必要があるのではないか。

盗んだ事そのものが誠実かどうかはさて置いて。

やはりどうしても、人は自分がかわいい。

創作上のストーリーでは、人を大切にする事を美談として語ったりしますが。現実においては、中々そうは行かない事もあるものです。

利己主義の人間は多くの場合、物語の中では悪として語られますね。しかし、どんな時にも人間、『悪』ではないかというと、そうでもないのではないかと思ってしまうのですね。

やはり、我々が「待てぃルパァン!」と言われてしまう事もあるのではないか。

失礼、これは悪どころか、主人公でしたね。


さて、私は思いました。


そのように誠実であれと心掛けている人間が、どうしても誠実さを欠いてしまう一瞬は、2つ程あるのではないか。

  • 人の行動によって、自分に不利益が齎された。自分が批判を受けた。
  • 自分が危機的状況に陥っている。人の助けを借りたい。

人が誠実さを欠いたことで、理不尽に思う事があるかもしれません。しかし、仕方がない事もやはりあるのではないか。

我々が甘んじて受け入れなければならない瞬間もあるのではないか。

今回は、そのようなお話をさせて頂ければなと。



 誠実でなくなる一瞬:人の行動によって、自分に不利益が齎された。自分が批判を受けた。

誠実さと言えば、『万人に平等であれ、優しく真面目であれ』という事ではないかと私は思っているのですが。いえ、勿論これだけだとは思っておりませんが、代表的なひとつの要素として、挙げさせて頂きますが。

しかしながら、平等ではなく、自分を立ててしまう事がどうしてもあると思うのですね。

例えば私、こんな経験があります。


それは、会社でとある人がミスをしてしまった時の事です。もうお客様はカンカンで、一触即発の状況。困り果てたその従業員は、「上を出せ」という言葉に、どうして良いのか分からない様子。

何故なら、その作業を担当していたのは彼だけだったのです。責任者は彼で、他の人間には事情が分かりません。とりあえず謝る事なら出来るかもしれませんが、それでは事態は収束しないようす。

なので彼は頑張って説明をするのですが、もう嫌がられているのか、彼の説明では納得して頂けないようでした。

少数精鋭の会社ですから、人員は限られています。誰も彼に手を差し伸べません。その電話に出ざるを得なくなってしまった別の人が、仕方なく出来事の説明を代わりました。

代理の彼は、怒っているお客様に対し、こう言ったのです。

「彼がどう言ったかは私には分からないので、それは彼に言ってください、としか言いようが無いのですが。今回の件では……」

代理の彼の説明によって、辛くも出来事は収束を迎えました。

その後、最初に電話をしていた従業員の方は、このお客様にはそっぽを向かれてしまい。未だに関係は改善されぬままのようす。


さて、感じ方は様々だと思いますが、ここで『そんなのは当たり前だろう。人に助けて貰えるなどと思うのは甘えで、お前のミスなのだから、お前が収束するべきだ』と考える方も、いらっしゃるのではないかと思うのですね。



 誠実でなくなる一瞬:自分が危機的状況に陥っている。人の助けを借りたい。

しかしながら、今度は自分がその時の立場だったとして、これを見て頂ければと思います。


それは、会社で自分がミスをしてしまった時のことです。説明の仕方が悪かった事に、腹を立ててしまっている様子でした。可能な限り、丁寧に説明させて頂いたつもりでしたが、お客様には満足して頂けなかったようです。

お客様には謝罪して、改善の余地を探しましたが、「もうお前は良いから、別の人間を出せ」と言われてしまいました。……どうしましょう。

会社の人間に助けを求めた所、「事情が分からないから」という理由で断られてしまいました。しかし、自分が信用されなくなっている以上、電話は他の人間に掛かって来ます。すると、電話に出た従業員は怒っているお客様に対し、こう言いました。

「彼がどう言ったかは私には分からないので、それは彼に言ってください、としか言いようが無いのですが。今回の件では……」


さて、今度はどうでしょう。


少し分かり難い説明かもしれず、その点については申し訳ない所なのですが。


やはり、ここで『この代理人は、一体なんて説明の仕方をするんだ。同じ会社なんだから、少しくらい立ててくれたっていいのに』と思う方もいらっしゃるのではないかと思うものです。


しかしながら、この2つの状況。状況としては、まるで同じなのです。事の発端が『第三者』か『主観』かという所程度にしか、違いがない。


本当は同じ状況の筈なのに、その時によって意見が違ってしまうこともあると。

さて、この二種類の状況を考え、私はこう思いました。

このように、ケースが『第三者』であった場合と、『主観』であった場合に、自分の感じ方が違う時こそ、思いも寄らずに誠実では無くなってしまうケースがあるのではないか。

このケースで言えば、もし自分が危機的状況に立たされていた場合、『なんで誰も助けてくれないんだ!』と一方では思いながら、他者が危機的状況に立たされていた場合、『自己責任だ、そんな事は自分で解決しろ!』となってしまう事も、やはりあるのではないか。


助けるべきか、助けないべきか。どちらが正解かは、人によって意見が分かれそうですね。


 『私』の時には助けて欲しい。『あなた』の時には、あなたがやって欲しい。

ここには、助けて当然、という想いと、助けなくて当然、という想いの2つがあると思うのです。

どちらも一概に正解とは言えないのではないか。……欲を言えば、『助けて当然』な世の中であって欲しい、という所ではないかと思うのですが。

実際には、自分が不利益を被ってまで、人を助けた方が良いと決断できるかと言えば、それはとても難しいものです。「なんで私が?」「それをしたら、あなた私に何かしてくれるの?」となってしまう事も、やはりあると思うのですね。

だからこそ、誠実であれというのは難しいのではないか。

現実的な局面が訪れた時、そうと決断できる人はむしろ、稀なのではないか。

今回の例で言えば、上下関係があった場合にはまた、事情が違うように感じられますが。

そこで、「助けてくれなくて当然。だから自分も協力しないし、自分の事は自分で解決する」となる方はハードボイルドだと思いますが。

むしろ、首尾一貫してそれが出来るあなたはゴルゴではないか。

しかし、それが冷たい感じがすると思う方も、やはり居るのではないか。

……ここに、正解は無いのかもしれません。

しかし、会社勤めをしている以上、すべてを一人で解決するのは無理な事が、どうしても出てきますね。

逆に、経営をするのであれば、一人でやらなければならない事もあるでしょう。



誠実さを追い求めるのであれば、「自分は助けられず、人は助ける」という状況が当然のように訪れる事を、受け入れなければならない。そのような事態が頻繁に訪れるのではないでしょうか。

だからこそ、人に誠実さを求めたくなった時に、自分の誠実さを疑わなければならないと。

その時こそ、本当に誠実な対応とは何かを考える時ではないか。

そう、私は思うのです。

それは、自分が逆の立場だったら、『助けない』という選択が生まれるのではないかということ。自分が助けなければ、自分もまた、助けられないのだということ。

それは意識しておかなければなあ、と思ってしまいました。







ところで、このような浅慮を書いている身ではありますが、私も以前、『自分の電話対応を録音して聞き返す』という事を試した事がありまして、その時に大変恥ずかしい思いをしたのを思い出してしまいました。

私はよく人に説明をする時に、偉そうな態度と思われかねない口調になってしまうという。そのような癖があるようでして。

これは録音を聞いてみるまで全く分からない事でしたので、よろしければ一度、自分の会話を録音して聞いてみるというのをですね、試してみる事をおすすめさせて頂きたい。

自分がイメージする自分の対応と、相手に映る印象というのもまた、大きく食い違ってしまう一面だと思うのですね。

これはもはや、赤面ものではないか。しかし、確実に対応は良くなったのではないか、という。

何事にも誠実でありたいですね。

お後がよろしいようで。


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