浮遊する無名作家の浅慮

やればできる。けど、やらない。……なんでだろう。

やればできる。けど、やらない。……なんでだろう。



よく、「自分はできる。やらないだけだ」という人がいますよね。
そういう事を言う人の多くは、「本当はできない人」だ、という話もよく耳にします。

そんな話は飽きるほど色々な所で論じられていると思いますが、では「自分はできる」と思っている人達の「自分はできる」と思っているポイントって、一体何なんでしょうか。
まだやってもいないのに、どうしてそんな事を言うんでしょうか。

今回はそんなテーマについて、少し考えてみました。



 どうして、やってもいないのに「できる」?

自分はできると思っている人達は、「できると思っている人達」なので、今回は「実際には行動していない人達」という所を前提に、こんな事を書いています。

できると思っている人達が、実際に行動している訳ではないのに『できる』と思っている最大の理由は、「自分はその方面について理解がある」と思っているから、なのだと思っています。
そして、「本当はやったら失敗してしまうかもしれない。だから、実行する事を恐れている」のだと思います。


例えば、こんな話があります。
筆者がある知人の所に行って、話をした時の事です。

私が個人的に小説や脚本を研究していると話した所、彼はこう言いました。

「小説を書く上で最も大切なポイントって、何か知ってる?」

とても抽象的な質問です。人によって大切にしている事は様々だろうなあと思いつつ、「私の場合は、物語の上に無理のない形でドラマ=心の動きが生まれている事ですね」と答えました。
すると彼は、「違うよ、大丈夫か小説家」と少し苦笑していました。
ふーむ、と私が思っていた所、彼はこう言ったのです。

「小説はね、行間を読むってあるでしょ。言葉にされていない部分を読まなければいけないんだよ。だから、小説家は『行間を読ませなければいけない』んだよ」

「そうかあ、なるほどね」と言いながら、…………うーん?
私は少し考えてしまいました。



 もしかして、同じ事を言っている

さて、『行間を読む』というのは小説――特に、ドラマ――で言うと、『台詞には語られていない、登場人物の感情を読む』という事に相当します。

私達は日頃ドラマを見る・読む時、登場人物の誰かに感情移入したり、或いは第三者の視点で俯瞰的に物語を追い掛けて見ています。

実際に小説やドラマのシーンで語られているのは『結果』であり、その出来事を語る過程には、必ず登場人物の『目的』と『行動』が伴っています。

そこをまず、読み手に理解して貰わなければいけない。

詳細は『小説の書き方』をテーマにしたページで説明しているので、よろしければそちらを……。

『行間を読ませる』という事に対しての私なりの解答は、登場人物の目的と行動が、リアルな人間と同じレベルで無理なくはっきりと描かれること=登場人物に感情移入できること、です。

そのための設計、そのためのプロットだと思っています。


これは答えのない問題に対する一つの解答ですが、(人によって考え方は様々であれど)彼と私が言っていた事は、ある意味では一致しているとも言えた訳です。


でも、実際の会話ではそうならなかった。彼は私の言葉を『間違っている』と評価しました。中で語られている事との差を確認することもなく、です。

ここには、『読み手としての理解』と『書き手としての理解』の食い違いが起こっています。



 『技術』としての『理解』、『知識』としての『理解』

少なくとも物事には、2つの理解の仕方があります。

・『何かを』『知っている』…………『知識』としての『理解』
・『何かを』『形にできる』…………『技術』としての『理解』

今回は芸術に関する話だったので頓着ですが、これが例えばコンピュータプログラミングの話となると、『知識』としての理解で物事を語るのは難しいと、すぐ気付くのではないかと思います。
例えば、先程の言葉を仮にプログラミングで書いてみるとこうなります。

「プログラムを書く上で最も大切なポイントって、何か知ってる?」

「プログラムはね、思い通りに動かない、ってあるでしょ。書かれている通りに動くんだよ。だから、プログラマーは思い描いた事を正しく書かなければいけないんだよ」

まあ、それは確かにそうなのですが。これが分かったからといって、明日からプログラムが書けるようになるかと言うと、そうではないですよね。

具体的に、どうプログラムを書いていけばいい?
どういった構造で、何を基準にしていけばいい?
書いていく上で、どこに気を付けなければいけない?

このような問題を解決するためには、少なくとも『知識』だけでは不十分で、実際に『コンピュータでプログラムをする』という、実践に基づいた経験が必要な事が分かるはずです。

書いてみれば当たり前の事ですが、『知識』→『技術』にするためには、少なくとも仮定の上でもいいから、『やってみる』『為にどうするか』を考えなければならない。

『理解しているのにできない』という事は、よく起こる事なんですね。

「自分はできる。やらないだけだ」と言う人は、それを実際にはやっていない。
→『技術』としての理解に乏しすぎるから、実際にはやってもできない。
→できない事を認めたくないから、「やればできるけど、やらない」

なんという負のループだ…………!!

まあ、そんな矛盾が起こっているのでしょう。



 『技術』として、自分の手中に収めるために

例えば、学校で英語を覚えたのに、実際には話せない。これも、『実践としての理解』が不足しているからです。

実際に、『理解している』の状態から『できる』に変えるためには、『では、自分が(それを)やるためにどうするか』を考えてみて、実践してみなければいけない。

そして、その実践した結果が期待しているものと違うようであれば、どうしてそこに差が生まれるのかを考えなければならない。

これは、とんでもなく時間の掛かる、そして労力の要る事です。

考えた結果、行動してみて、その結果もやっぱり期待しているレベルのものではないかもしれない。
そうすると、何故それがそうなるのかを、また考えなければならない。

成功したものと失敗したものに分類して、どうして失敗したのかを考えて、また実践して…………
実際やってみると、結構ここで挫けてしまうんですよね。
「自分には無理なのではないか」と思ってしまう。




「やればできるけどやらない」人は、そういう意味で、本当は実行する事に恐怖を感じているのだと思います。
失敗したくない気持ちが前に出すぎてしまう。
でも、やってみないと、失敗しないと『できる』日は一向に訪れませんよね。

筆者は昔、囲碁の先生に「命まで取られる訳じゃないんだから〜」と、よく言われていました。

命まで取られる訳じゃないんだから、失敗すると思っていてもやってみませんか。
…………なんて、そんな事を考えてしまいました。



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