こんにちは。
基礎編が終わり、段々と細かい部分に手を出しつつあります。
今日は、『起承転結は物語に必要か?』という内容です。
起承転結でプロットを書いてみると
これまでに書いてきた記事を読んで頂ければ分かると思いますが、筆者は起承転結をあまり重要視していません。というのも、ドラマという問題定義から解決までのプロセスを、『起承転結』というスペースに当て嵌める必要が(今の所)ない、と思っているからです。
……と言うと、誤解を生みそうですね。
正確に言うと、起承転結を使わない訳ではなく、発想のヒントにする事はあります。
よく勘違いされるのは、以下のようにプロットを組んでしまう事です。
■プロットA
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起
・老人が猫に出会う。その猫は傷付いていて、今にも倒れてしまいそうだった。
・老人は猫を抱きかかえ、家路を急いだ。
承
・猫に人肌程に温めたミルクを与えると、猫は恐る恐る、ミルクを飲み始めた。
・老人はミルクを飲み終え、擦り寄ってくる猫に微笑みを浮かべた。
転
・老人は心臓に病を抱えており、胸を押さえて倒れてしまう。
・実は、老人は病院に行く途中だった。しかし、もう医師にも治すことは出来ない病だったのだ。
結
・猫は老人の最期を見届け、その頬を舐めた。
・やがて警察が現れ、猫をどうにか退かそうと試みる。だが、猫はいつまでもそこに居るのだった。
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これの何がいけないのだろう? そう思う方も少なくないかもしれません。
ですが、起承転結を一つの区切りとして『シーン』に転用すると、その後に詳しく考えていく中で、圧倒的に必要なシーンが足りない問題に直面します。
このまま書き始めると、老人が心臓に病を抱えている事は、『猫と出会うシーン』『ミルクを与えるシーン』のどちらかに含めなければならない事になります。
また、傷付いた猫の行方も書くことが出来ない、という事になります。
そもそも、『起承転結』ってなんだろう? よく聞くけれど、実際の所は何を意味するものなのだろうか。
その質問に、お答えしましょう。
起承転結ってなんだ?
『起承転結』とは、古代の中国で生まれた構成です。当時より、漢詩(漢字の詩)を構成する為に作られたのが、起承転結の始まりでした。
起句で詩を歌い起こし、
承句で受け、内容を深め、
転句で場面を転換させ、
結句で締めるといったものです。
日本では随分昔から物語に使われていますが、実はこの起承転結。元々は詩の手法だったのです。
詩のような非常に短い文章では、詠んだ時の口当たりの滑らかさだとか、テンポの良さだとか、そういったものが一際重要視される傾向にあります。
だから、四つの区切りを設けた訳ですね。音楽で言う所の『AメロBメロサビ』のような、収まりの良さがあります。
これを物語に使う事も、勿論手法の一つではあります。気を付けて頂きたいのは、『起承転結を重視した話だからと言って、シーンの数が四つだとは限らない』ということです(確率はゼロではありませんが)。
こうして改めて起承転結の構成を見てみると、半ば『セオリー』のような、感覚的なものであることが分かります。
もちろん、起承転結でもいいのよ。
『ドラマ』を細かく砕いて行くと、それは登場人物が対面する、状況の変化を追い掛けた『シーン』の集合体である事が分かりました。しかし、それが四つのシーン構成でなければいけない理由は、どこにも無かったんです。
例えば、起承転結が絶対であるとするなら、日本の俳句は『五-七-五』、短歌は『五-七-五-七-七』で構成されますが、これをきっかけに物語を作る事は出来ませんよね。
必ず季語を入れなければならない、というのも発想の邪魔になります(企画としてはアリかもしれませんが)。
起承転結に縛られる事は、自分にそういった内容を強要しているに過ぎないのです。
発想の起点にするのは良いとして、『当たり前の常識』等というものは基本的に無いのだ、という事を覚えておきましょう。
ホイヘンスは、慣性の影響を受けない光子の存在を定義する為に確認されていない『エーテル』という概念を設けましたが、アインシュタインは最終的に『エーテル』は無くても光子の存在を立証できる、としました。
太古の昔は、地球は丸かったら落ちてしまうと思われていましたね。
人々の信じる『セオリー』って、そんなもんです。
我々に必要なのは、当たり前だと言われていた事が本当に実証出来るかどうかを研究する事かもしれません。
なんて。
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